プロフィール
1971年(昭和46年)12月9日生まれの51歳です。
父は富山県立高校で社会科教員であり、後に浄土真宗本願寺派浄泉寺の住職となった人で、母は大阪府立高校で英語科教員であり、後に父との結婚で富山県へ移り、住職を支えてきた人です。
そんな父母の間に、三歳上の男児を兄といただいて、わたしは生を享けました。
幼少時は体が弱く、よく体調を崩して寝ていました。夜尿症がなかなか治らずに苦労した経験は、いまも子育てに生きています。
小学校、中学校、高校では、クラスのみんなから仕事を任される役でした。高校ではラグビー部に所属。試合で靭帯を損傷して、松葉づえで通学することになりましたが、お檀家さんのおじいちゃんに30分かけて車で送っていただいたことが、いまも忘れられない体験です。「支え合い」と一言で言いますが、わたしも支える側に年齢的にも社会的にもなってきたなというのが実感です。
大学入学直後、ワンダーフォーゲル部に入部したものの、つらさについて行けずに退部したことは苦い体験でした。自然に親しむといいますけれど、自然は厳しいものです。大学ではやりたかった文化人類学を専攻し、青木保教授のもとで卒論を書けたことはいまも自慢です。卒論のテーマは「インド民族運動における神智学教会の影響について」というものでした。その地の文化がどのように形成されたのかということに、いまも興味は尽きることはありません。
大学卒業と同時に念願だったNHKに1994年に入局し、報道カメラマンになりました。同期には、後にフリーアナウンサーになった久保純子さんや、いま日曜日ののど自慢を担当している小田切千アナウンサーがいます。私が初任地として配属されたのは奈良放送局で、文化財や寺社仏閣が多く、伝統や歴史に興味も出てきました。年が明けて1995年1月17日午前5時46分、兵庫県南部と淡路島を震源とする阪神淡路大震災の烈しい揺れで目覚め、わたしの一生で最も長く、最も忘れられない一日が始まりました。その日、神戸市に陸路で入り、取材で訪ねた町はそれまで学生時代になんどなく見た神戸市の姿とは大きく違っていました。
あの揺れは1分ほどのものでしたが、6千人を超す人が生命を奪われ、それ以上の人が財産を奪われ、人生設計の変更を余儀なくされました。災害は国境、人種、宗教、話す言葉に関係なく、襲ってきます。28年前の阪神淡路大震災当時にはあった「地域の地縁」が、コロナ禍の社会変化も相まって、急激に薄れています。これからの災害で生命を左右するのは、あなたがどれだけ防災に努力したか、あなたがどれだけ減災に努力したかではなく、地縁、つまり地域での助け合いです。助けてくれる人が、助けてもらえる人が、あなたのそばにいますか?
町づくりにはそうした「もしも」の発想が欠かせません。吉見町では小学校が再編統合される計画が進んでいます。あなたが避難所として頼みにしてきた地域の小学校は廃校になってますから、遠くの新設される小学校へ避難してくださいねと言われたら、そんなこと、わたしはできませんよと言いたい。その避難所が混雑することも容易に想像できます。コロナ禍をくぐり抜けたおかげで、人が集中しない、分散することが重要であることも学びました。小学校の統合再編だけでない町づくりを、みなさんと一緒に考えていきます。
その後、大阪放送局にて勤務後、退職。実家が寺院であったこともあり、仏教の勉強をもう一度したいと浄土真宗本願寺派の本山、西本願寺(京都市下京区)の門をたたきました。おつとめのことを声明(しょうみょう)といいますが、その声明をみっちり教わり、雅楽器の龍笛(横笛のひとつです)の奏楽法を習いました。いまも時々、ひとりで龍笛を吹きます。浄土真宗本願寺派のお坊さんたちと一緒に奏楽することもあります。そして本山に職員として採用され、本山の年中行事や法要の裏方として務めてきましたが、築地本願寺への転勤を契機として関東へ居を移し、お寺を開く活動を知りました。お寺が地域にあるのはお寺を最初に開いた方があるからですが、その多くは最初から現在のようなお寺として存在したわけではありません。中世に貴族や武将が財施して建立した例を除けば、小さく、粗末な道場や小屋から始まったお寺のほうが全国に多いです。それを知ったときから、わたしもお寺を開きたいと思い、目標にしました。それが吉見町だったのです。それからの経緯はお寺のホームページにも記載しています。